がんになった あなた と わたしへ

がんを経験したわたしの記憶 そしてこれから。

内臓よ ありがとう

お題「わたしの癒やし」

毎晩、布団の上で夜ヨガをしてから寝ています。

夜ヨガを始めたころは、「今日は疲れたからやめとこうかな」など理由をつけて、やったり やらなかったりでしたが、

あれ?ヨガをして寝た次の朝は体が軽くないかい?

体がほぐれて頭も空っぽになってふにゃふにゃになっていく時間。

寝落ちしていくことがほとんどですが、ときどき最後のシャバーサナ(ぼんやり瞑想)までなんとか起きていることも。

ある夜のシャバーサナ。
おなかに手を置いたまま考えました。

ここに大腸があるんだなあ。
このへんは小腸かな。
腎臓はこのあたりかな。
肝臓って、すい臓って
いったいどこだろう。

持ち主の私がどこにあるのかも分からないのに、この内臓たちは24時間はたらいて
わたしの命を支えてくれてるんだな...。

当たり前のことなのに
今まで考えもしなかった。

「大切なことは自分のすぐ近くにある」と言いますが、
ほんとにすぐ近く、それどころか自分の中にあったんだなあ。


そんなことを考えてお腹をなでなでしていたら、あったかくなってポテッと寝ました。

ありがとう、わたしの内臓たち。

生存率と予後

精密検査の時は、がんの確率(カテゴリー分類)。

診断後は、5年生存率、10年生存率という確率。

予後という、なんだか予言みたいな今後。


ふーん
そういう可能性がこれくらいあるってことね

と客観的に見られればよいのですが、

自分のこととなると

不安の渦に飲み込まれてしまいそうでした。
(完全に飲み込まれてた)


そんなとき

ネットでみつけた記事のなかに
すごく心に残った言葉がありました。


がんになった奥さん「私のがんの5年生存率は〇〇%で、10年生存率は〇〇%で…」

夫さん「人間みんな致死率100%や」


致死率100%!

そうだった。
わたしもあなたも、あいつもこいつも
致死率100%


この言葉で、肩が軽くなって

今までよりすこし
客観的に目の前の事実や可能性を
見られるようになりました。


一つ残念なこと。

今はその記事がみつからない!!

がんになってはじめて気がついたこと

がんになるまでは、

「わたしは、がんにはならない」
と思っていました。

その根拠は

家族にがんになった人いない。
という
たったそれだけ。

がんの診断後
問診票で「親族にがんになった人はいますか」と聞かれて
考えてみる。

えーっと
わたしが生まれる前に死んだおじいちゃんと、
生前一度も会ったことがなかった叔父さん

………。

そこまで書いてみて、はじめて気づきました。

会ったことがないから遠縁のような気がしてたけど、
おじいちゃんと叔父さんって、
血縁的には、わたしとめっっちゃ近くない!?


なぜこんなことに気がつかなかったんだ…
と思ってはみましたが、

もし、もっと前に気がついていたところで、
大して何もしなかったに違いない。

はたまた
気がつかないふりをして
生きていたのかもしれないな!

とくに、乳がんや子宮がんは
親族にいなければ大丈夫かなと思っていました。

勇気の言葉

”You can't scare me I've been through chemo.“




私はビビらないよ
ケモをかいくぐってきたんだから。



何かに挑戦するとき
おじけづきそうになったとき

自分に掛けたい言葉です。

コツコツ放射線治療

乳房温存手術のあと、

約5週間、月〜金
放射線治療を受けました。

病院での滞在時間は毎日20〜30分。
治療期間中、特に具合が悪くなることもなかったので

毎日コツコツコツコツ
淡々と通って照射を受ける日々。

でも、放射線治療終了まであと1週間というところで、

行きたくなくて、行きたくなくて しょうがない!

小さい子どものようにひっくり返って
「行きたくなーい!」
と暴れたいくらいでした。
(暴れていませんよ)

毎日淡々と通ってはいたけれど、
あと少し、となって
我慢していた本音が暴れ出したのかもしれません。

最後の1週間
なんとか本音怪獣を飼い慣らし、
無事に放射線治療を終えることができました。

わたしにとって
放射線治療のなにが一番の
我慢どころだったかというと

上半身裸で
手をバンザイにして
明るい部屋で
寝ているということ。

たったそれだけのことが
居心地が悪くて仕方がなかったのです。

照射回数が増えるにつれ
胸の周りは赤黒く焼けたようになっていきましたが、
放射線治療が完了後は時間と共に薄くなり、
気がついたら無くなっていました。

それと同時に
居心地が悪かった記憶も薄れていきました。

放射線治療を受けている時と
赤黒い部分が残っている間は

テキトーでいいので
毎日保湿
お忘れなく

そして、
痛くなくても
熱が出なくても
時間が短くても

放射線治療を受けているあなたは
がんばっています。

手術が思ってたのとちがう

想像していた手術

・点滴して、ストレッチャーにのせられて手術室に向かう
・「手術中」のランプが赤くひかる
・家族が見守る中、病室で自然に目が覚める。

実際の手術

・「術前点滴の代わりに自分でOS-1を飲んでください」
 手術前夜から当日朝にかけて、OS-1(500ml)を3本、ぐびぐび飲む。


・「手術室まで歩いて行ってください」
 病棟の看護師さんと一緒に手術室まで、てくてく歩く。

 
・手術台に乗ったとき、「あ、頭こっちです」
と言われる。頭と足の位置を間違えた。


・「手術終わりましたよー」
手術室で看護師さんに起こされる
ぼんやりした意識の中でも、センチネル生検(リンパへの転移の有無を調べる手術中の検査)の結果が気になり、

「センチメンタル検査はどうでしたか?」
と言ってしまう。
夢うつつだが、言い間違えには気がついてちょっとはずかしい。


思い起こせば、『ER 緊急救命室』など医療系の海外ドラマが好きだったので

手術室に自分の足で入れて、
緊張しながらもいろいろ眺めて
嬉しかった。

がん治療の病院選び

2020年
健康診断の結果

右乳房
要精密検査(カテゴリー4 がんの確率 30-50%)

これをぶら下げて
わたしが最初に行ったのは
乳腺外来のある女性専門クリニックでした。


何かの間違いかもしれない

がんだなんて、思いたくない

なるべく小さく終わらせたい


無意識ですが、
そんな思いから
手術や入院ができないクリニックを
選んだような気がします。


マンモグラフィと超音波検査を受けた結果、

A総合病院で
針生検を受けることに。


生検の検査結果が出るまでの1週間、

もし(いや、多分)がんだったら
病院はどうしようか?

と、考えました。


このA総合病院で治療をしていくことに
わたしは納得できるのかな。


それは、
急に人生の崖っぷちに立って
「足場が崩れない道を一本だけ選びなさい」

と言われているような感覚でした。


いま思えば
どの道(病院)を選んでも、
同じように治療を受けて回復したのだろう
と思うのですが、

その時は
自分の生死を左右するような
大きな分岐点

に立っているような気がしたのでした。


そんな中で
とても参考になったのが

イシュラン 乳がん

です。


www.ishuran.com


「選び方のポイント」という項目にこんな文がありました。

このサイトで入手できる情報は、大きなヒントになるとは確信していますが、特に相性の部分は、最後は患者さん自身の「直感」に勝るものはないと思います。
実際に複数の医師に会ってみて、この医師になら自分の人生を任せられると思えた医師に主治医をお願いするくらいのスタンスでいれば、納得した形で治療を進められるのではないでしょうか。


自分の直感を大切に、
自分が大切にしたいものを見極めて、

納得いく病院を見つけようと
決めました。


①わたしが大切にしたい「情報」

・病院内にがん相談支援センターがあること

がん診療連携拠点病院であること

医師の評価が良いこと

通院しやすい距離にあること


②そしてわたしの「感覚」

生検を受けたA総合病院は
がん診療連携拠点病院ではないのですが、

乳がんの手術件数、乳房再建手術件数が
他科の手術に比べて比べて突出して多く、
乳腺外科に力を入れていることが分かりました。


ただ、

「女性外来」として婦人科と乳腺外科が同じセクションにあるため
男性は中待合には入れません。


乳がんの告知を受けた日、
名前が呼ばれるまでの20〜30分
わたしは中待合、夫は外待合で過ごし、
名前を呼ばれたら夫を呼びに行って、一緒に診察室に入りました。

また、中待合は健診を受けに来た元気な女性でいっぱい。


わたしの居場所は、ここではないような気がする…


女性外来の方が治療中も落ち着いて通院できるし、
エキスパートの医師が診てくれる方が安心
というのも、もちろん正解だと思います。

でも
わたしにとっては
A総合病院は、一番いい選択ではなかった
ということでした。


結果

都道府県がん診療連携拠点病院である
B総合病院に
紹介状を書いていただきました。

B総合病院の
昔ながらの外科外来は、
年齢層高めの男女でいっぱいで、

ときどき、
付き添いの家族や、医療従事者にきつくあたっている
おじいちゃんもいるけど、

医師や看護師のみなさん
がん相談室の認定看護師さんとの出逢い

やっぱりわたしにとって
この病院がよかった
と思うのでした。